2011年3月11日、東日本大震災。
あの日、あの瞬間、あなたはどこで何をしていましたか?
当時、50代だった私は病院の透視室で検査の真っ最中でした。
突然鳴り響いた携帯電話のアラート音。それが鳴り終わらないうちに、経験したことのない激しい横揺れが病院を襲いました。
私は咄嗟に、患者さんが透視台から落下しないように左手で必死に身体を抑え、右手では装置の管球を抑えていました。今思えば、手で管球を押さえて何になるんだという話ですが、その時は「もしこれが患者さんの上に落ちたら大変だ」という一心だったのを覚えています。
揺れが収まると同時に、全館が停電。
無停電電源装置(UPS)のけたたましいアラーム音が響く中、私は患者さんを透視台から降ろして、避難誘導をすることだけで精一杯で、装置を正しくシャットダウンする余裕すらありませんでした。
当時、私が勤務していたのは血液透析を行っている病院でした。自家発電で透析を継続。
スタッフを帰宅させた後、定時まで残っていた私は真っ暗になった夜の国道を避け、時間をかけて車で帰宅しました。
翌日からも試練は続きます。ガソリンスタンドは停電で営業停止。私は貴重なガソリンを節約するため、その日から1週間、病院に泊まり込むことを決めました。
近隣の施設が被災して透析ができなかったため、日曜日には他院の患者さんを受け入れ、1日3クールのフル稼働。
しかし、そのとき放射線技師の私は、他院の患者さんの誘導や対応に丸1日を費やしていました。なぜなら、電気がなければすべての放射線機器は動かないからです。
「放射線技師って、電気が無ければただの人なんだ……」
大がかりな装置に頼ってきた自分の無力さを、このとき痛いほど思い知らされました。
そんな中、地震から2週間が経ち、電気とガソリンが少しずつ復旧してきた頃、一本の連絡が入ります。超音波関係で懇意にしていた大学病院の臨床検査技師(MT)からでした。
「ポータブルの超音波装置を使って、被災地で下肢静脈エコー(DVT検診)をやってくれないか?」
「何かできることはないか」とくすぶっていた私は、即座に「OK」と返事をし、寝袋を車に積み込んで沿岸部の被災地へと向かいました。これが、私のその後を大きく変える「下肢静脈DVT検診」との出会いでした。
電気がない避難所で目撃した、ある血管外科医の姿
当初、避難所となった体育館で検査を始めましたが、すぐに重大な問題に直面しました。ポータブル装置とはいえ、バッテリーが切れてしまえば何もできなくなってしまうのです。またしても「電気の壁」が立ちはだかりました。
呆然とする中、私は他県から参加していたある血管外科医の行動に、激しく目を奪われました。
その医師は、パイプ椅子に座っている被災者の方の前にちょこんとしゃがみ込み、その温かい手で相手のふくらはぎを優しく触りながら、血栓予防の弾性ストッキングの履き方を、満面の笑顔で丁寧に指導していたのです。
「これなら、電源がなくてもできる。何より、被災された方の心に寄り添える」
ハッとさせられました。医療とは、装置を動かすことだけではない。
それからは、エコーの画面を観る実務は若手技師たちに任せ、私は受診者の案内や、ストッキングの指導をしながら、被災された方々のお話を聴くことに徹しました。
ただ「話を聴く」ということ。それが教えてくれた医療の本質
被災地で多くの方と接する中で、気づいたことがあります。
辛い経験をされた方々は、決して同情や援助を求めているわけではなく、「ただ、誰かにこの想いを聞いてほしい」と思っているのだということ。
私は時間が許す限り、その方の目をじっと見つめながら、ただ静かに話を聴き続けました。
「話を聴くこと」で、傷ついた誰かの心がほんの少しだけ軽くなる。その姿を見て、私は自分が医療従事者として、人間として、確かに誰かの役に立てているという深い実感を味わいました。
被災地へ行ったことで、私は超音波のスキルだけでなく、ストッキングの指導や「相手の心に寄り添って話を聴く」という、医療人として最も大切なスキルを養わせてもらったのです。
50代を過ぎた「平凡な技師」の人生が、一歩も二歩も前に進み出した
この被災地でのDVT検診活動は、それから形を変えながら約8年間続きました。
全国から集まった熱いおもいを持った医師、臨床検査技師、診療放射線技師、そして医療機器メーカーの方々。志を同じくする最高の仲間たちとの交流は、50歳を過ぎて現状維持に入りかけていた「ただの放射線技師」だった私の背中を、一歩も二歩も前に押し進めてくれました。
「もっと彼らと対等に学び合いたい、もっと知識を深めたい」
その一心で、私は震災後に猛勉強し、**「超音波検査士」や「CVT(血管診療技師)」**の資格を取得しました。
かつて「電気がなければただの人」と落ち込んでいた私が、気がつけば様々な舞台で発表をし、経験を語らせていただけるようになっていたのです。それだけでなく、居住している地域の活動にも積極的に参加するようになり、趣味の領域も格段に広がりました。
東日本大震災という悲劇は、二度と起きてほしくありません。
しかし、あの日プローブを持って沿岸部へ向かう決意をしなかったら、私は間違いなく、そのまま「平凡な放射線技師」として現役を終えていたと思います。
まとめ:老後人生を迎えた今も、心はあの場所にある
今でも、スマホで当時のDVT検診の仲間たちのSNSを見るたびに、皆さんの生き生きとしたお顔を鮮明に思い起こします。また、全国各地で災害が起こるたび、テレビの前で「私も現地へ駆けつけたい」と胸が熱くなります。
65歳になり、のんびりフルタイムのクリニック勤務となった今の私が行っても、体力的に何もできないかもしれません。それでも、私の心は今でも、困っている誰かがいる現場へと向いているのです。
若手RTの皆さん。
放射線技師の価値は、病院の大きな装置(ハードウェア)のボタンを押すことだけではありません。
あなた自身の「目と手」、そして「相手を想う心(ソフトウェア)」に宿る技術こそが、場所を選ばず、一生あなたを支え、誰かを救う武器になります。
どうか、目の前にある「学びのチャンス」を当たり前と思わず、自分の手の中に一生モノの技術を蓄えていってください。
あなたのその手が、いつか誰かの未来を照らす光になります。応援しています!


コメント